三川内焼の歴史

三川内焼には2種類の歴史があります。


一つは、16世紀末に豊臣秀吉が挑戦に出兵した”文禄・慶長の役”に始まります。

慶長3年(1598年)、平戸藩の領主・松浦鎮信は帰国にあたって朝鮮の陶工を100人ほど連れて帰ります。

朝鮮人陶工の巨関は、中野村上椿坂(現在の長崎県平戸市)に開窯しました。

これが現在の三川内焼のルーツの一つになります。

朝鮮→平戸→三川内


そしてもう一つは、同時期に佐賀県北部に誕生し朝鮮半島からの陶工によって急速に発展をとげた唐津焼からの流れです。

九州の最も早い時期の施釉陶器である唐津焼が焼かれていました。

唐津焼はやがて日本で最初の磁器焼成につながる形で拡大し、発展していきますが、現在の伊万里市や有田町、そして長崎県佐世保市など周辺に陶工も移っていきました。

唐津から椎ノ峯に移った高麗媼は巨関に招かれて127人の陶工たちと共に三川内に移住し、長葉山に開窯します。

巨関も高麗媼も、そのルーツは韓国・慶尚南道熊川でした。

朝鮮→唐津→三川内


日本における磁器焼成は、三川内の隣の有田で1610年頃に始まりました。

当時の最先端産業でしたから、技術はもちろん原料も厳しく保護されていました。

三川内では、当初は陶器を焼いていましたが、1640年頃に白い焼き物=磁器へと変わり始めます。

そのきっかけとなったのは、巨関の子である今村三之丞が寛永10年(1633年)に針尾島で陶石”網代陶石”を発見したことでした。


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三川内焼の技法

染付…白地に描かれる藍色の絵や文様を染付といいます。

   素焼きしたうつわに、コバルトを主成分とした"呉須"という絵具で描くものです

   染付の技法はほかの産地でも観られますが、三川内で描かれる文様には、特に繊細さを感じます


唐子…"唐子絵"は三川内の最も代表的な絵柄で、トレードマークと言ってもよいでしょう

   江戸時代には献上品として焼かれていました

   描かれる唐子の数は1人・3人・5人・7人と奇数とされ、中でも"七人唐子図"は朝廷や徳川幕府への献上品として描かれていたそうです

   また大名は5人、一般の武士には3人の唐子を描いて贈られたと言われているそうですから、人数により意味合いがあったのでしょう


青海波…青海波は文様の名前で、一本一本筆で線を描きます

    穏やかな波がどこまでも続いている様子を表現した模様を意味しています

    "未来永劫に"、"平穏な生活が続いていくように"という意味が込められ、縁起の良い柄とされています

    また災厄を水に流して清める文様とも言われ、厄除けの意味が込められることもあります


卵殻手…"エッグシェル"などとも呼ばれ、海外で愛されました

    まるで卵の殻のように薄く軽い磁器で、純白の生地に描かれた模様は電球のように透けて見えるほどです

    卵殻手は19世紀に入って完成してコーヒーカップが輸出され、ヨーロッパの王侯貴族の憧れの的になりました

    卵殻手まではいかずとも、現在の三川内焼も薄づくりは特徴の一つです


菊花飾細工…竹の道具を使って土の塊から花びら1枚1枚を切り出し、立体的につくるものです


透かし彫り…白磁を細かく彫りぬいて光や向こうの景色が透けるように加工することです


置き上げ…水で溶かした粘土である"化粧土"を筆に付け、何度も塗り重ねながら立体的な絵や文様を作ることです

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